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倶楽部会員による
薀蓄とトリビア
エッセイコーナー


ひょうご考古楽倶楽部会員が 研究調査した薀蓄や関連したエッセイ、これは面白いと見つけたトリビアをここでご紹介しています。
趣味として、郷土研究家として、各々の考えのもとに、個人で研究調査したものです。


索引

立体図で探る/城の形や大きさが表すもの

HOW TO MAKE マイ火きり杵!

倭王権以前、『加古川下流は、、』違う?

いい塩梅か、塩づくり

玉津田中遺跡出土のココヤシ考

TKY48について(体感やよい塾)

明石原人の発見者 直良信夫とは

兵庫津−中金世の港湾都市が開幕

古代米:兵庫県立考古博物館で育てる3種の赤米

大仲遺跡の土器荒井体験

兵庫津 北風家寄進の玉垣 越中六渡寺の神社に現存

あんなこんなここだけの話
     考古楽裏話
     人間に関する話
     遺跡紹介
     最近よく聞く言葉高齢者と考古学で聞く言葉祭祀について





立体図で探る/城の形や大きさが表すもの



兵庫県では、高精度DEM(Digital Elevation Model)を整備公開しています。この高精度DEMは、航空機などからレーザーを使って測量した地面の 高さデータの集合体です。 このデータをGIS(地理情報システム)で使うことで、現在の地面に残る微細な凹凸を表現・把握することが可能になりました。古墳や城館跡などの形状や大きさを誰でも、無料で、簡単に探ることができます。

下図には、徳川大坂城と明石城(10万石)・篠山 城(7万石)・洲本城(3万石)の遺跡立体図を同じスケールで並べてみました。

お城の大きさは、(櫓などの建物や家臣団の屋敷 地もありましたが)、各大名の動員力に比例する、と考えられます。それぞれのお城の面積を比べてみると、徳川幕府の西日本の本拠地である大坂城 が約29万m?、次が明石城の約26万m?、篠山城が約 10万m?、最後に洲本城が約9万m?です。石高からみると、3万石の違いしかありませんが、明石城の面積がとても大きいことがわかります。

次に注目したいのが、お城の本丸の大きさです。

大坂城が大きいのに比べて、他の3城はとても小さいです。しかし、形を見てみると、明石城と篠山城の本丸はどちらも四角く、城内でも一番高いところに位置しています。

明石城は1618年に幕府から銀1,000貫の補助金と築城奉行を派遣され、篠山城は1609年に天下普請で幕府が主導して作ったお城で、単なる大名のお城ではなく、実は徳川幕府の西日本統治の強い 影響を受けています。

篠山城であれば、1614年から始まる大坂の陣に向かう、畿内近国の政情不安への徳川政権の丹波国確保のため、明石城であれば豊臣氏滅亡後の西国大名に対して、大坂城を中心とする徳川幕府の 西日本防衛網の構築といったことが想定できます。

特に明石城では、譜代大名本多氏が治める姫路城から大坂城へ至る中間地点に位置することから、 いざと言うときには、幕府軍を受け入れ、出撃する拠点と考えられたため、大坂城に類似した面積 を持っているものと推測できます。

以上のように、高精度DEMを用いて、お城の形状 や高さを検討することで、近世初頭の徳川幕府の 政策の一端を考えることができます。

学習支援課主査 永惠裕和



 
縮尺 1cm=100m
上 大阪城
 下 洲本城

上 明石城
 下 篠山城 



HOW TO MAKE マイ火きり杵!



☆マイ火きり杵をつくろう

「ようお越し」火おこしグループ

火おこしグループの例会で、火おこしに使う火きり杵作りに取り組んだ。

1) 、丸棒を八角柱にするための作業。

2) A4 用紙を使い、丸棒の外周に用紙を巻き、外周の長さを測り、その中に同じ幅で 8本の線を引く。

3) そして、丸棒の両端の切断面に 8 個の印をつけ、丸棒に 8 本の線を引き、八角柱にする準備をする。

4) 次に、片側の断面の中心点に、軸先を差し込む穴を電動ドリルで開ける。
中心に穴を開けないと火おこしの際バランスが崩れる。

5) 次に、丸棒の側面を八角柱になるよう、カンナで削っていく。
6) 側面平面が 8 面できた。

7) 最後に、残っていた断面の仮打ちした穴に丸頭釘を打ち込み、周りを鉛筆の芯を削り出すように、カンナで削ってとがらした。これは、結構根気のいる作業であった。
8) そして、反対の断面の開けた穴に、軸先を差し込み、自分のサインを書き込んで出来上がりである。

全行程約 1 時間 30 分の作業であった。 (K・T 記・撮影)

考古楽研究発表資料要約:
倭王権以前、『加古川下流は...』違う?



私は、ことばがどういう意味で使われているのか。 使った人の意図が、受けての人にも同じイメージとして伝わっているのか。それが気にかかっています。

資料は1冊『播磨国風土記』の古代史です。 【兵庫県立歴史博物館ひょうご歴史研究室編、坂江 渉監修】

そのことばとは、『国家』や『王権・政権』の権力機構及びその作用の『支配・統治』などです。
例えば、この『国家』は(私のイメージでは、
1 統治するきまりがある(法)

2統治の及ぶ範囲がある(領域)

3その範囲から租税を徴収する(納税)

その領民は生活の安寧が保障される。それができる のが『国家』だと思います。
よくわかる例は『律令国家』です。律令というきまりがあり、地方へ国司が派遣され○○国を律令によって経営する。
租庸調 という税が『国家』に納められる。

そこでこの文献の文章をみると、【前方後円墳は 国家的身分秩序をあらわした墳墓である。】として、
地方における前方後円墳や大型円墳の出現は、各地 で成長してきた首長を中央政権が統治した政治的モニュメントである。
つまり、前方後円墳は倭政権の 地方支配の進展を裏づけるとある。
8世紀の『律令国家』より2~300年は前です。律令の『国家』ではないと思います。
中学生の教科書では『クニ』とカタカナで書かれていたように思います。この『クニ』 は律令国家と同様の統治国家でしょうか。
これを『前方後円墳』というキーワードで地方との関係を説明したら、「中央政権の統治する力が、 実際より大きく、強い」と思いませんか。

館長は、 竜山石の長持形石棺が倭王権と同様に使われていること。
大平さんは祭祀具の石製模造品が共通すること。
中村さんは前方後円墳が交通の要衝に見せる タチで立地すること。
から中央政権(倭王朝)が地方を支配していたことは、そのシンボルである『前方後円墳』からもわかる。と言われている。

行者塚古墳のできた時代は、『クニ』の統治のあり方は? 統治の及ぶ範囲は?税の徴収は?と見てくると、中央と地方の関係は先生方が言われる、関係ではなかった。もっと地方の独自性が強かった。と思えるのです。
倭政権の統治が、地方に及ぶのは 527 年の磐井の乱、それを平定した継体天皇以降では?つまり (国造、ミヤケ)、氏姓制度による豪族の支配が本格化してからだと思うのです。
ただし、三氏とも 5世紀後半以降を視野に入れて論じられており、また加古川下流域には言及されていない。
ある学芸員の方が「謎の 4世紀」と言われ、 最近久しぶりに歩いた出会いの道「歴史ロード」では、行者塚古墳は大王の古墳群(百舌鳥・古市古墳 群)より 50 年くらいは早い!ことを再発見しました。
つまり、加古川下流域は、倭王権に組み込まれる に相当先進的な地域として発展していたのではなかったか。

「これって本当?」と言葉の意味や時代を しっかり押さえて考えないと『常識』やと疑わず信 じてしまうのではと思っています

M.Y氏 記



☆いい塩梅か、塩づくり/
古代の食事かい



今年度から活動開始した「古代の食事かい」。
今年は 塩づくり、それも藻塩法でつくろうとの目標で活動しています。
4・5 月には海でホンダワラを採集し、乾燥させています。
8月初めに鹹水をつくります。

それと並行して、製塩土器をつくりました。
これは 倶楽部の古代体験として、「製塩土器で塩をつくってみ よう(全 3 回)」を実施しています 。
第 1 回 6 月 11 日 (日)には、来館者と一緒に粘土で土器を成形し乾燥させました。
第 2 回 7 月 16 日(日)には、その製塩土器を 体験広場の竪穴住居跡で野焼きしました。火の熱さと 天候の暑さの二重苦に耐えながら、49 個中 43 個がき れいに焼き上がり、みんなで喜びました。
さらに第 3 回では、9 月 16 日(土)に焼成された製塩 土器で塩をつくります。
そして最終的に、10 月 7 日(土)の古代体験講座「あ をによし 奈良の都のお昼ごはん」を提供することに なっています。

これまで、牛乳で蘇をつくったり、温めた石で肉や野菜を葉で包んで焼いたりと試行錯誤を 繰り返しつつ、楽しんでいます。
(K.S 記・撮影)

古代の調味料 藻塩作りに挑戦



「しょっぱい体験も喜びに/古代の食事かい」



「古代の食事かい」初年度のテーマは、藻塩作り。
4月末頃から、膝まで海につかり採集したホンダワラ 10 キロを天日干し。そして、乾燥させ 1 キロに!

熱中症アラートの出ている 8 月 4 日の炎天下に、藻塩 草作りです。
乾燥ホンダワラを汲んできた海水に浸しては、天日干し。
それを繰り返すこと5回!
真っ黒な海水 が出来上がり、磯の香が漂い、散歩中の方々がのぞき込んで行かれた。
味は、海水と同程度の塩味。塩分濃度は、 測定不安定?ホンダワラは2日間天日干しをして、保管。

9月6日、焼藻作りの日です。
バルコニーから支援課を通り、体験2を抜けて外へ、 その道中には強烈臭が暫く漂っ ていた。
でも、好奇心旺盛な「古代の食事かい」のメンバー、指を突っ込みなめてみた。
「オーッ!まろやかで美味しいぞ!」
「ウンウン、美味しい!」
不安 いっぱいだった皆に、希望とやる気が湧いてきた。
1)竪穴住居跡に鉄板を敷き、その上に鉄鍋を置き、中に乾燥ホンダワラと木片を入れ、燃やして灰をつくる。
2)灰の粗熱が取れたら、強烈臭漂う真っ黒な海水が入ったバケツに入れて攪拌し、
3)蓋をして再びバルコニーへ。

6日の作業終了。
9月16日、海水バケツの蓋を開けると、あんなに 烈だった匂いが気にならず、逆に美味しそうなにおいに変わっていた。

ただ、中身の形状は、モグサを水に溶いたような、ヘドロが浮いてきたような、あまり良い景色ではありません。
それでも、また勇気を出して味見・・。
前にも増して、旨味も増した美味しい塩味!
漉し布で 漉して、濃茶色の鹹水(かんすい) が出来上がった。

次に、6月 11 日に作った製塩土器で製塩です。
9 月半ばというのに気温は 30°Cを 越え、火のそばの作業はきつく、体力勝負になりました。

が、土器の中でぐつぐつと煮える茶色の鹹水が、蒸発していき、縁に 塩らしきものが付着していく様は、
古代人の貴重品だった塩作りで、出来上がっていく塩を待ちわびている気持ちが、少し分かるような気がしました。

猛暑での、火のそばの活動は、もうご勘弁をとの感想ですが、再挑戦したら、もっとスムーズに藻塩作りができるのでは・・と の声も。




M.K 記





考古楽研究発表資料要約: [ 玉津田中遺跡出土のココヤシ考]



―2009 年の篠宮研究員の考察文からー

当館展示のココヤシの内果皮(以下ヤシの実) は、昭和 61(1986)年 12 月に玉津田中遺跡の旧河道から出土したものである。旧河道からは多量 の木製品やその材料、蛸壷、漁具なども出土しており、集落が突然の洪水にみまわれたことを表していた。

しかし、なぜ兵庫県の弥生時代の遺跡から南国に生育するヤシの実が出土したのか、当時発掘に当たった学芸課主任の篠宮正研究員は、長らくその疑問を抱えることになった。

究明には幾度となく思考錯誤を繰り返したであろう彼は、平成 20(2009)年、ついに長年の疑問に論文(「玉津田中遺跡出土のココヤシ考」・間 壁葭子先生還暦記念論文集)という形で決着を見せた。その内容を紹介しよう。

弥生時代の出土例
まず彼が挙げたのは同じ弥生時代のヤシの実の出土例である。
平戸市里田原遺跡 1 個、壱岐市原 の辻遺跡 3 個、合計 5 個の出土である。
これらの 遺跡やヤシの実などを精査すると、そのどれもが 比較的海に近く、木器製作を行なう拠点集落という共通の特徴があった。

遺跡の立地条件から彼は、漂着物を採取したと考えるのが常識的と判断するが、拠点集落ならば交易品もあり得る。いやよしんば漂着物としても、瀬戸内まで到達するものだろうか。解決にはいたらない。

ヤシの実投流イベント

ついで彼が述べるのは、同じくヤシの実の漂着を確かめるために、愛知県伊良湖町が行なっている住民参加のイベント結果である。
同町では島崎 藤村作詩による歌曲「椰子の実」にちなみ、昭和 63(1988)年から石垣島を「遠き島」に見立てて 毎年 100 個前後を投流していた。
藤村が作詩におよんだのは、ヤシの実漂着の報を、伊良湖岬に滞在していた民俗学者の柳田国男(播磨出身)から 得たからである。
投流はこの論文が書かれた平成 20 年までの 22 年間で計 2404 個、年ごとに季節や場所・時間に変化を持たせて行われている。

これらは黒潮や対馬海流に乗って列島各地に漂着しているが、その中で唯一、瀬戸内で回収されたものがあった。なんとそれは奇しくも玉津田中遺跡近くの明石の浜であった。

彼はさらに発掘当時の報告書記事「魚の遺体や 漁具、多量の蛸壷の出土」などを加え、往時の人々の生業が海にもあったとして、ヤシの実採取に確実性を持たせている。
最後に彼は一連の検討から、弥生時代には海へ の交通権や漁業権などが存在した可能性に触れ、 また拠点集落へのヤシの実など珍品の納入義務に ついて提言し、論を終えている

T.I 記

TKY48について



(実践考古学の分野に入るのでしょうか)



”TK”は、体感弥生塾の略で、自称令和の大中弥生人48名「?」が、約1800年前の弥生人になり切り、当時の生活様式を研究し、斧や楔を石や木材等で実際に制作し、使用して当時を体感する活動です。

【この活動は藤田専門員の壮大な計画より、スタートしました。 2年目に入りましたので、具体策2項をご紹介します。】


1,大型丸木船の制作

大中遺跡で採れた大木【楠の木」長さ2.5M 直径約0,6Mの少し2股の材料を、令和弥生人が木材と石で斧を手作りした。
斧と樫の木の楔で、先端と後部を尖らし
厚み5?を残し内部をくり抜いて、
丸木船の完成とする、
また櫂も作り、

>2人が乗れたらいいのだが?
完成後海に浮かべて、魚を釣り、それを食べるのが、大きな目的です。

>完成はいつか?
竪穴住居2022号と同時位に出来るといいなーと小生は思っています。

2,鹿の角で釣り針の制作

鹿の角を輪切りして、
楕円形の素材から、
中心部の骨の髄を取り除き
楕円の輪を作り,
約2?の太さに、
砥石で整形した後、
針の形に切断して、
返しを付けて、
糸結の溝を付けて完成させます。

竿、浮は竹と木の枝で自作し、
重りは石かガラス,
浮は草茎で取り付ける、
問題は糸である、候補はからむしの撚糸であるが、多分市販のものになるか?

以上2項を完成させ、丸木船で海に出て、手製の釣り道具で鯛を釣り上げ、古代の食事のかいに、料理してもらい、皆で食べたいなー


2023 05 08 【大中弥生人:H.Y氏記】




年間を通じて魚釣りや弓矢体験をし、古代人の生活に触れて青少年の健全な育成を目指すために藤田淳専門員の指導の下で、昨年からプログラム「体感弥生塾(TKY48)」が実行されています。

7月4日、いよいよ本格的に古代人の生活にふれる体験、鹿の角から作った釣り針で、垂水の平磯釣り公園と播磨町の古宮海岸で釣りを行いました。

現代の通常の 釣り針と古代の釣り針を体感し、貴重な経験で大きな成果がありました。
垂水の平磯釣り公園では午前10時から、倶楽部員7人と藤田社会教育推進専門員、そして前副館長の前川浩子さんが参加しました。
まず通常の釣り針で、それなりに連れた人、釣れなかった人いろいろでした。

本番の鹿の角で作った 釣針では、チョット太めで、えさの虫で針を隠すのがやっとでした。
この辺りは「ベラ」が多く、その小さい口では針は引っかからず、もっと細くする必要がありそうでした。
ただ、 「ベラ」が餌をつついている感触は得ましたので、それなりの可能性はあると分かったのは一つの成果と思えます。

(S.K氏 記・撮影) 播磨町海岸でも挑戦

2班の我々6人は、午前中の和坂小学校5年生53人の火おこし体験学習が終了後、館を出発し、30分程で行ける望海公園に向かいました。
差し入れの大中畑のピーナッツ入りおにぎりを食べて、釣りに掛かりましたが、 この地は海岸線の整備が非常に良く、安心して釣れました。

肝心のエサはシラサエビ、マムシ、青虫で1人当たり200円でした。それでも余りました。
まず鹿の角針にエサを取り 付けるのが一苦労、まだまだ細くしないといけないと感じま した。
それでも全員竿入れしましたが釣れない、しかしエサは 取られるので、藤田指導員の推奨の穴釣り針にすると、フグが ほぼ全員に釣れました。
5匹釣れたので、その後仕掛けを代え て天秤錘にしたら10cmのハゼが、そして市販の針で青虫で目的の魚ガシラ12cmが釣れ、ああ良かった 。
合計7匹の釣りでした。 管理者に聞きますと、この地は投げて釣るのがいいそうです。 鹿の角針の精度を上げて再度挑戦することを決めて、3時間の 釣りを終了しました。ただただ楽しかった。

( H.Y氏記、M.M氏 撮影)

「明石原人」の発見者 直良信夫とは パート1



明石原人」をご存じですか。今の小学生からは、「何それ?明石原人まつりなら知ってるよ」の答えが返ってきました。明石原人まつりは毎年 5月に八木遺跡公園で、町おこしイベントとして実施されています。

ここでは、「明石原人」の発見者である直良信夫氏について述べてみたいと思います。(参考文献;『見果て ぬ夢「明石原人」』直良美紀子著)

昭和 60 年 11 月 1 日、明石市は、市制 66 周年の記念式典で、「幻の明石原人」出土の西八木海岸発掘調査を行った国立歴史民俗博物館名誉教授、春成秀爾氏と発見者の直良信夫氏に文化功労賞を授与しました。これは、直良信夫博士の生涯において、ただ ひとつの褒章でした。しかし、直良氏は病床に臥していて、娘の作家直良美紀子さんが 代理でこれを受け取り、その報告を待つかのように翌 1 1 月 2 日 、8 3 歳 の 波 瀾 万 丈 の 生 涯 を 閉 じ ら れ た の で す 。

直良信夫氏の生涯とは、どのようなものでしょう。

信夫は、明治 35 年 1 月 10 日、大分県臼杵町で村本幸一・シメの次男として生まれました。村本家は、元美濃の国の武家で、関ヶ原の合戦で敗れた城主が、臼杵に移封されるときに付き従った由緒ある家柄でしたが、信夫が生まれた頃には食べるのにも事欠く貧窮の生活でした。

しかし、勉強が好きでたまらない信夫は、 教科書や参考書を友達に借り、その全てをそらんじてしまいました。12歳になった信夫は、学校に行かせてもらえると言うことで、東京の叔母の養子になります。 が、叔母の冷たいあしらいに2年で母の許に帰ってしまいます。

帰郷後、信夫は活版印刷所の丁稚奉公をし、 僅かな給料で参考書を買い、寸暇を惜しんで貪るように勉強をするのでした。

ある夕方、いつものように寺の石段にしゃがみ込んで勉強をしている信夫に、背後から声を掛けたのが臼杵町立実科高等女学校の先生、直良音でした。14 歳の信夫にとって初めて勉強していることが認められた時でした。

極貧の中でも向学心に燃える信夫は、つてを頼り再び上京し、上野保険事務所の給仕の仕事を得て、夜は学校に行き寝る間も惜しんで勉強しました。結果、特待生となり授業料免除で、大正 9 年の卒業時には成績優秀で、国立農商務省窒素研究所に就職できたのです。

そこで、信夫は、昼休みには予てから興味のあった発 掘作業に関わっていくのでした。そして、生来の真面目さと几帳面さを買われ、膨大な発掘品の資料づくりを依頼されます。

信夫は夜学から帰ると、寝食を忘れて論文づくりに励みました。しかし、そんなハードな生活を続けた結果、とうとう結核に侵されてしまいます。折角道が開きかけた矢先の病に、信夫は意気消沈して臼杵に帰る途中、いつも励ましてくれている直良音先生が、姫路高等女学校で教鞭を執っていることを 思い出し、訪ねていきます。

その後、信夫は 11 歳年上の憧れの先生と結婚し、直良性を名乗ります。

その後、音は明石の女学校で職を得て、二人は明石大蔵谷に居を構えます。まだ、病が完治していない信夫は、音の専門でもある栄養のある食事を食べ、預かっている発掘品の資料づくりや、論文の作成・専門誌への投稿などをしながら、遺跡の宝庫である播磨周辺 の散策を日課にして、療養に努めるのでした。

そうして、ここで明石原人と出会うことになるのです。


(M.K 記) 会報から転載





「明石原人」の発見者 直良信夫とは パート2



「昭和 6 年、直良信夫は、台風が去ったある日、いつものように八木海岸を散歩していると、嵐で大きく崩れた岩壁で化石化した骨を見つけました。発見した地層から見て、それは旧石器時代のものだと確信し、音の許に飛んで帰り、発見時の興奮を伝えるのです。

その骨は、人間の腰骨(寛骨)が化石化したものだと確信した信夫は、東京大学の松島教授に送り、鑑定を依頼します。
教授から返事が来て、「これは大変なものを 見つけましたね。私も旧石器時代のものだろうと思います。」との返事が 返ってきました。
が、それからは何の 音沙汰もなく、専門誌はおろか新聞にも掲載されませんでした。そして、その人骨は、手紙と共に送り返されてきました。

昭和 7 年、再び上京し、早稲田大学古生物学・徳永教授の私設助手となり、その後、早稲田大学附属高校夜学 会計事務係に採用されたのをきっかけに、昭和 20 年に は早稲田大学講師に、昭和 32 年「日本古代農業発達史」 で文学博士号を取得し、昭和 35 年教授に就任しました。

その間、八木海岸で発見した人骨は、昭和 20 年の東京大空襲で灰と化してしまいました。 が、東京大学に、焼失した人骨の模型と資料が保管されていました。
昭和 23 年東京大学教授・長谷部言人(ことど)は、この模型から人骨は約 50 万年前の原人の骨と発表します。
「明石原人」の誕生です。
従来、発見者の名前をつけるのが常ですが、それには信夫の名前はなく、「ニッポナントロプス・ アカシエンシス・ハセベ」という学名になりました

その 34 年後、昭和 57 年東京大学教授・遠藤萬里と人類学者 馬場悠男(ひさお)が地層発掘調査をし、縄文時代以降の骨だと発表しました。しかし、その時も発見者である 信夫は呼ばれることもなく、また、信夫が発見した場所とはかけ離れた地層が調査されていたのでした。
信夫の 胸中の疎外感・無念は、いかばかりか察するにあまりあります。後に、そんな信夫をモデルに、小説家松本清張 が「石の骨」という短編小説を発表しています。その後も、 何人かの研究者が人骨について論文を発表し、論争となりますが、未だに決定的な結論には及んでいません。

昭和 40 年、信夫を経済的にも精神的にも支え続け、唯一無二の理解者であった音が、亡くなります。その後、 娘ほど年の離れた音の姪と再婚し、昭和 47 年早稲田大学を定年退職した信夫は、神経性睡眠不足から体調を崩し、妻の故郷出雲に転居します。

出雲に於いても、精力的に著作活動を続けますが、体力の低下は著しく、昭和 60 年国立歴史民俗博物館から、待ちに待った八木海岸発掘調査の依頼があったときには、起き上がることさえも できませんでした

信夫は、遺跡から出土する骨や種子の研究や、貝塚の研究で、先駆的業績を築き、今日の動物考古学や環境考古学に大きな貢献をしました。

直良信夫の生涯。最初、なんと報われない人なのだろうと気の毒でなりませんでしたが、信夫を近くに感じられるようになった今、この人は、どんなに虐げられても、 向学心を捨てることなく、好きな研究を一生続けられた。
それは、幸せだったのではないかと思うのです。
そして、 20 世紀最後の博物学者直良信夫の「見果てぬ夢」を、焼失した人骨と共に、次代の研究者たちが真相の究明をしてくれることを切に願ってやみません。



(M.K 記) 会報から転載





博物館冬季企画展 「兵庫津-中近世の港湾都市-」が開幕 兵庫津は大輪田泊と呼ばれた古代から近世まで



千年を超える歴史を有する港湾都市で、瀬戸内海 の交易の重要拠点でした。 そして初代兵 庫県庁が置かれた“はじまりの地”でも あります。兵庫津の周辺で 行われた発掘 調 査 の出土品から、中世から近世の兵庫津の歴史をたどります。
昨年、神戸市兵庫区で「兵庫津ミュージアム」 が開館し、それに伴って企画されたもので兵庫の津遺跡出土品として、室町時代の中国建窯産天目茶碗、江戸時代の肥前系染付磁器やミニチュア土製品が展示されます。 会期は 2023 年 1 月 14 日(土)から 3 月 12 日(日) までです。 (S.K 記)




トリビア:古代米:☆兵庫県立考古博物館で育てる3 種の赤米



考古楽倶楽部同好会 大中畑では 古代米やからむし、藍などを育てて、活動に使っております。
昨今 雑穀米が健康食に取り上げられており、「赤米 黒米」を店頭で目にされた方もあるかと思います。



☆ 考古楽倶楽部会報からの転載

学習支援課課長 岡本一秀著

赤米は、玄米の表面にタンニン系の赤色色素 を蓄積した米、またはその稲のことです。 

稲の 野生種に近いとされており、現在の稲に比べて 草丈が高く、穂は大きいものの穂数は少なく、 倒れやすく、収量が低く、芒(のぎ)が長いと いった特徴があります。

最近では新しい赤米の 品種が作り出されていますが、考古博物館で栽 培しているのは、品種改良していない「総社種 赤米」、「対馬種赤米」、「種子島種赤米」の3 種 です。

「総社種赤米」は、岡山県総社市の国司(く にし)神社で、神 饌用赤米として 伝えられてきま した。赤褐色の籾 で、鮮紅色の長い 芒が特徴です。

「対馬種赤米」 は長崎県対馬市 の多久頭魂(たく づだま)神社で、 神饌用赤米とし て伝えられてき ました。茎が太く穂が余り垂れない特徴があり ます。

「種子島種赤米」は、鹿児島県種子島の宝満 (ほうまん)神社で、神饌用赤米として伝えら れてきました。芒は白いのですが、玄米は赤い のが特徴です。

日本に入ってきた赤米の品種は、短粒種のジ ャポニカ種(温帯ジャポニカ)と長粒種のイン ディカ種、ジャポニカ種より粒の大きい熱帯ジ ャポニカ種(ジャヴァニカ種)があります。「総 社種」と「対馬種」はジャポニカ種ですが、「種 子島種」は熱帯ジャポニカ(ジャヴァニカ種) ではないかという説があります。

どの赤米も地元で大切に受け継がれてきた貴 重な品種です。9 月初旬には出穂してそれぞれ の品種の特色がよくわかりますのでお楽しみに。

参考文献
小川正己・猪谷富雄 わが国の古代の赤米
生命環境学術誌 第5 号 2013
猪谷富雄 「古代米」から稲の世界へ
醸協第107 巻 第10 号 2012
武蔵国分寺資料館 平成28 年度秋季企画展
幻の赤米-国分寺の稲作について-





エッセイ:☆龍の絵画土器発見で意欲隆々/大中遺跡の土器洗い体験




令和 2 年 6 月に、播磨町郷土資料館倉庫に保管されている大中遺跡の報告書記載以外の出土品 93 箱を見直すことになり、ボランティアで洗ってもらえないかと依頼がありました。
15 人で スタートしました。 初めてなので、一から教えてもらいました。当初は、洗いすぎの指導を受け、慣れて来ると洗い不足を指摘され、今でも完全ではありません。
何箱洗ったか不明ですが、私が洗ったと思われる中に、絵画土器の「龍」があったと聞き、見せてもらいました。残念ながら洗っていた時気がついていませんでした。でも見た時は感激したものです。
その土器は、「60 年目の新発見」という講演会の資料の中に写真が載っていました。
洗った中で、他の人も含め注目すべき土器は、 10 個以下ですが、この大中遺跡の絵画土器の「龍」 「シャーマン象徴の絵」が、出てきたことは、やり甲斐を感じました。
きっと、60年前の発掘調査時には、多くの絵画土器が出ていたのだろう と思います。

洗っていて、感心することがあります。弥生後期の土器ではあるが、どの土器も、表面の硬度は、 相当固く、各破片は、2mmから5mm位の厚みが多い、よくもこんなに薄く出来るものだと感心しています。修練に修練を積んだ弥生人がこ の大中にいたのです。

まだ、4 割ぐらい残っているとのことなので、 最後まで洗うつもりです。

(ペンネーム:稲美町の弥生人 記)




M.S氏による考古学コラム(会報から転載)

兵庫津・北風家寄進の玉垣 越中・六渡寺の神社に現存



この見出しで越中の話か、関係ないわ と思わないでいただきたい。館で開催中の冬季企画展「兵庫津」に合わせた話である。

私は富山県(越中国)出身だが、神戸に兵庫津という繁華な港町があるのは高校の日本史の勉強で知っていた。だが、北風家という廻船問屋の豪商がいたと知ったのは、40余年ほど前の神戸在勤中、北風家関連の史料集を手にしたときだ。兵庫津随 一の富豪で、兵庫津を牛耳っている大物というイメージだった。

間もなく上方落語に「西の旅」という演目があり、その一節に北風家が出てきて驚いた。たしか本館学芸員、中川渉さんの父上、桂米朝師の生の高座かレコードで聴いた。兵庫津の説明で「兵庫の北風か、北風の兵庫かと言われるほどの長者や」のようなセリフがあった。北風家の半纏を着ていたら北風家で飯が食え、 風呂にも入れるという話も出てきたはずだ。 このことは三木市出身の作家、玉岡かおるさんの最近のヒット作『帆神』にも描かれている。ついでながらこの作品で北風家が工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛を支援していたことを知った。

北風家が「北前船」も経営していたと知って我がふるさと富山県と何か接点がないか調べてみた。 北前船は北海道と兵庫・大坂を結ぶ日本海航路の廻船で、越中には北前船が寄港する港がいくつもあったからだ。 パソコンでのデータ検索の末、見つけた。

主要港・放 生津の隣町、六渡寺の日枝神社 に北風家が寄進した玉垣があるというのだ。 玉垣の石柱は 272 本あり、大坂から北海道に 至る北前船の船主が航海の安全を祈り寄進した。その中の 12本に北風 荘右衛門の名前が刻まれている。
幕末の 1852年のもので、射水市指定の文化財になっている。この神社には三角形の石の鳥居があるのだが、この石材は神戸の御影石だそうだ。日本海航路―瀬戸内海航路を通じて富山―兵庫は江戸時代からつながりがあったわけだ。
北風家は代々、荘右衛門を名乗っているが、玉垣を寄進したのは 65 代目!の「貞和」という人のようだ(倶楽部の仲間、Nさんの教示による)。なかなかのやり手だったたらしい。

「西の旅」で兵庫津を語った米朝師の息子さん、中 川 学 芸 員 が 2 月 5 日 、「 出 土 品 か ら み た 兵 庫 津 」 と 題 し 兵庫津ミュージアムで講演される。同館には元考古博 のTさんも勤務されている。皆さん、この機会 に兵庫津へ。これ標語(兵庫)です。

K.Mさんによるエッセイ投稿



 

1)あんな・こんな ここだけの話 ≒ 考古楽裏話



 

新型コロナウイルスも少し目途が見えてきたように思える。現在、地球には70億人前後の人が生活をしている。この世界的コロナ発生であるが、過去にもこのようなことは何回も繰り返していると思われる。このような状況での事例を紹介したい。

 時期は不明であるが、場所は広大なヨーロッパでの出来事である。その時代は、だれしも聞いたことのある“ルネッサンス時代”のことです。
 ルネッサンス時代が始まる前には、大不況が始まり大変な状況と察しする。おそらく各地で大変な状況の場面があったと想定するのですが、徐々に人民が冷静に判断するようになり、夫々が仕事ではない、すなわちノルマのない物つくりに没頭する様になったようです。

 それは芸術、すなわち、色々な、もの作りがあつたようである。

 考古楽倶楽部においても、各同好会での物つくり、来館者に対しての体験、館外での体験指導などがあるが、この機会に今以上の物つくりに没頭できるチャンスと捉えてみては如何でしょう。  先人たちが残した様々な遺物より、再現実践を色々と行っているが、今一度先人たちの思いを考えてみて、木製品など再出発し没頭してみては如何でしょう。
2020年5月9日




2)人間に関する話



  1; 播磨の考古学者 今里幾次
1919年(大正8年)3月9日生れ ※私の父親は大正7年生れで同じ年
概略:飾磨郡飾磨町にて出生 兵庫県立姫路商業学校(このころから、考古学関係の新聞記事の切り抜きを始める) 卒業後、株式会社五十六銀行へ入行(後の神戸銀行監査役) 銀行マンと考古学の二足の草鞋 ※私も、スーダラ節サラリーマンと考古ボーイであった

 1939年3月23日より今里氏が初めて散策したのは、姫路市辻井の畑(現在は関西電力の変電所)、後の辻井遺跡であった。標高20mの沖積平野が広がる麦畑で弥生土器・須恵器・布目瓦などを採集していた。翌年の正月(1940年)には、サヌカイト?片と共に縄文土器を発見。そして縄文中期の土層から、ほぼ全身の埋葬人骨を発掘したのである。参考:姫路市史 第7巻下 考古資料編  そのことは、1月9日の神戸新聞に「石器時代の人骨 姫路市内水田の溝の中で発見 考古学会に新話題」との記事であった。  発見当時は人骨の為、警察と医者が駆け寄り大変な事情徴収を受けたと聞いている。
もし朝日新聞OB佐野記者なら『播磨の若手考古学者! 縄文人殺害か?』となるのではと妄想中


2; 現在も継続中 W氏企画 古墳巡りツアーにて
元県の技師、W氏など10名ほどで出かけた古墳見学での出来事。

2015年5月8日(金)の古墳巡りは、西播磨の横穴石室見学であった。当時の見学場所は殆ど記憶から薄れたが、一つ忘れもしない出来事がある。
 姫路市広畑区西蒲田にある下野古墳群へ行った時の出来事ですが、その前に場所の説明をしたいと思います。私の時代の広畑には中学校が一校で、一学年のクラスが15クラスほどあったようである。(団塊の世代:昭和22年から25年生れ)広畑区には日本を代表する企業、新日鉄広畑(古くは富士鉄)がありマンモス校のため分校が出来ていったと言える。下野古墳群の近隣は、夢前中学校地区(夢前川右岸・JR英賀保駅の西)に位置し、卒業生には有名な人物 “現在本庁の課長・K氏” の出身校であります。当時、Kさんはテニス部に所属しており、古墳がある才山をランニングしていたと本人から聞いた。
 
ここから本題に入る。
見学は乗用車3~4台での移動だったと思いますが、空き地に駐車し山裾を歩く。途中、畑仕事のご夫婦に出会い登り口を聞き向った。獅子垣を開け山へ入るが、先頭の私はすでに古墳ムードで地形を隈なく見て登るが、先に紺のカッパを着た人形がぶら下がっていたのは気が付いていたが、近づくとそれは人間と解り、ストップと言った。近寄り皆で観察し、この人 “爺さんか婆さんか”“いや若いのでは” と言いつつ110番。
そこでU氏が言った “私が警察を待っているので、みんな古墳を見てきてください” それを聞いての思いは “そんな気分でないのにと思いつつ、見学に向かう” 一時間ほど散策し現場に戻ると、10名ほどの警察官がきていた。
その後、UさんとWさんが残り、派出所で事情徴収を延々と受けたようである。私たちは、次の見学に行き、連絡するもまだ派出所。結局、出会ったのは夕刻であった。 二日後くらいの新聞の片隅に“三か月前から行方が分からなかった〇〇が山中発見”なんと30代の男性との記事を見て、私は“なんでもっと早ようにあえなかった なんぼでも酒飲みながら話聞いたるのに・・・” と思った。その後一ヵ月ほど、一人さみしく寝る(実は家庭内別居)部屋の電気をつける前、あの時の姿を思い出したが、怖いとは思わなかった。




3)遺跡紹介と、裏話



 

兵庫県たつの市にある“長尾・タイ山古墳群”について少し紹介したく思う。この古墳群は昭和55年7月15日から昭和56年3月31日まで調査発掘を行った遺跡です。調査の発端は、地元のヒガシマル?油の関連会社が「緑のひろばづくり計画」を立案したが、埋蔵文化財登録地であるがため、調査を地元の考古学者に依頼した。報告書は1982年に龍野市教育委員会として発行されているが、調査の主体は、地元研究者6名プラス、大学生・高校生・中学生60余名と作業員による発掘であった。
 この古墳群は、横穴石室が築造される前の、5世紀後半の古墳群であり、場所は龍野市(現在は、たつの市)揖西町長尾字タイ山であり、律令時代の古代山陽道の駅家“布勢駅家(小丸山遺跡)”の南数百メートルに位置する微高地である。
 発掘による成果は大変なものであった。それは、揖保川流域に多い装飾付須恵器・副葬形態・多くの形象埴輪・馬鐸・金箔を施した馬具・冠・耳飾り・儀刀・土製紡錘車など多くの成果があった。
 それに、当時参加の高校生から現在、京大と大阪市大の教授が誕生したことも大きい。それには遺跡発掘から得られた多くの体験と、6名の指導者の影響が大きいのではと思っている。

※ 詳細は、1982年『長尾・タイ山古墳群』兵庫県龍野市教育委員会を参照下さい





ここからは裏話に入る
上記の写真は、四つ出土した馬鐸の図面です。その四つの中に少し欠けている馬鐸がありますが、それに関する裏話をしたく思う。
発掘は、今から40年前で、当時の6名の研究者は勿論若かった。当時、発掘の道具を購入した中に“ボーリング棒”があり、指導者の一人が嬉しく何回も地面下に押し込みねじる、地下の地質を確認取るためである。たまたま犠牲になったのが、傷ついた第3馬鐸であったとの裏話でした。

   2020年5月11日



最近よく聞く言葉「高齢者」と考古学で聞く言葉「祭祀」について



コロナが流行し4ヶ月を過ぎようとしている。そのニュースで出てくるのは「高齢者」であります。そこで高齢者を調べてみると、?定年を迎えた60歳、?年金を全額もらえる65歳、?あるいは70歳、?それと75歳、と色々あり定まっていないのが現状である。
 ちなみに私は、散髪屋さんは60歳以上、博物館では65歳以上が割引で喜んでいるのですが、実際のところ規定がまちまちであるのが現状です。そこで、私がその問題を解決してみます。
 高齢者とは、相手がどのように見て、自分自身がどう思うかであって人それぞれ異なると思う。

 次は、考古学で良く出てくる言葉「祭祀」に移りたいと思います。いつも思うのですが「祭祀」と聞けば、“なるほど・・・”と思ってしまう都合の良い言葉であると昔から思っていた。ファジー(曖昧)でとおる良き言葉であるが、それは誰もその時代に生きていた人がいない為で、“なるほど・・・”となるのである。
 最後に、解決に近づくと思われる図書を紹介します。それは、考古博物館のOBである、大平茂氏が2020年4月に発行された『ひょうごの遺跡が語る まつりの古代史』であります。その中には祭祀と思われる事例が沢山紹介されており、すでに割引で購入された方々が多くおられますがお勧めします。
 只、私は割引前に購入した為、悔やむ毎日を過ごしております。



当倶楽部会員により考古学関連の本が出版されているのでご紹介します



兵庫県たつの市御津町 朝臣4号・5号・7号墳測量報告書
----旧御津村の先人の足跡を再検証する---- -
            みはらし会 考古部会 萬代和明 他著
全国遺跡報告総覧にて 兵庫県みはらし会で検索、ダウンロードできます。


図解 播磨国風土記賀古郡 神田晋治著   amazon.co.jp