ひょうご考古楽倶楽部会員が 研究調査した薀蓄や関連したエッセイ、これは面白いと見つけたトリビアをここでご紹介しています。
趣味として、郷土研究家として、各々の考えのもとに、個人で研究調査したものです。
「新聞、テレビに出ない日は無し、斎藤県知事」。 |
本コラム、倶楽部が主催した遺跡ウオーク(6 月2 日) |
この見出しを見ただけでは「何のこっちゃ?」と思われ
るだろう。前述の本欄は主催の遺跡ウオークに合わせ、
神功皇后伝説をテーマにした。 私の現住所に近い神戸・東灘の「本住吉神社」の春祭(5月4-5日)の新調だんじ りに神功伝説にちなむ装飾がお目見えしたこと、あわせて 郷里、富山県の高岡御車山祭(5月1日)の一番街通の曳 山の鉾留がなんと加古川・尾上神社の朝鮮鐘を模したもの で、この鐘には神功皇后が新羅から持ち帰ったという伝承 があることを知ったからだ。 そして、なぜ神功伝説が濃密な瀬戸内海から遠く離れた 北陸は高岡の曳山飾りに加古川・尾上社の朝鮮鍾が導入さ れたのかという謎を投げかけた。その謎解きの鍵として「古 代の海人集団による日本海航路の掌握」と、「住吉・神功信 仰の越(こし)地域への伝播」をはるかな底流として挙げ た。以下、おいおい謎解きにかかる。 北部九州を本拠地とする古代の海人(あま)の姿は、邪 馬台国で有名な「魏志倭人伝」に記述されている。この海 人集団は卑弥呼の時代(2世紀末~3世紀中ごろ)までに 北部九州と朝鮮半島・中国大陸との航路、瀬戸内海航路、 日本海航路をほぼ掌握していたであろう。でなければ卑弥 呼の魏への遣使は叶わなかった。これは私の妄想でなく、 詳細は「日本の古代」第3巻(中央公論社)『海をこえての 交流』を参照されたい。 海人勢力は「倭の五王」の時代(5世紀ごろ)になると、 ヤマト・カワチ王権に組み込まれて、王権の「水軍」化し ていく。 北部九州を本貫地(本籍)としつつも、現住所は 王権のひざ元、難波津(住之江)に本拠を移し(移されて)、 政権に奉仕するようになる。 神功皇后に新羅征討を託宣 した住吉神の信仰がどこまで遡るか不明だが、倭の五王 の時代に住吉大社の祖型ができたのではなかろうか。 瀬戸内海航路、日本海航路の海上ルートとそこでの海人 勢力の活動は続いていく。 都(大和・山城)から日本海の 海上ルートに接続するため、淀川水系を遡り、琵琶湖岸を 経由し、越前・敦賀(ツヌガ)に至る内陸ルートも整備さ れる。 これを逆流し越(こし)から山城・大和中枢に進出 したのが継体大王だ。 敦賀は日本海航路の東西の結節点で あり、陸路でも機内中央とつながる東西、南北交通の重要 拠点だった。 私は今般、神功伝説を勉強するのに記紀を読み直した のだが、神功が新羅征討に船出したのは角鹿(敦賀)だ ったと知って驚いた。神功は難波津から出航したとばか り思いこんでいたからだ。彼女は敦賀から船出、日本海航 路を西進し、九州に至っている。帰路は瀬戸内海航路だが、 帰還後産んだ応神天皇ともども敦賀に赴き、気比大神に 帰朝報告している。事実か否かは別にして敦賀の重要性 がうかがえる。 記憶に新しいと思うが、大河ドラマ「光る君へ」の6月 放送分は紫式部の父、藤原為時が越前守に任命され、越 前国府で任に当たる場面が描かれた。 国府に入る前に松 原客館に立ち寄り、宋人たちと交渉するシーンがあった。 松原客館は中国、朝鮮、渤海などからの公私の来訪者の日 本海側の受け入れ窓口(外務省の出先兼迎賓館)だった。 日本海航路の重要性は中世でも変わらず、江戸時代に至 って北前船の隆盛を招くのだが、もはや紙幅が尽きた。 M.S記 |
同好会「古代の食事かい」が中心になって参加者は20 人。 |
兵庫県では、高精度DEM(Digital Elevation Model)を整備公開しています。この高精度DEMは、航空機などからレーザーを使って測量した地面の 高さデータの集合体です。
このデータをGIS(地理情報システム)で使うことで、現在の地面に残る微細な凹凸を表現・把握することが可能になりました。古墳や城館跡などの形状や大きさを誰でも、無料で、簡単に探ることができます。 |
縮尺 1cm=100m 上 大阪城 下 洲本城 |
上 明石城 下 篠山城 |
☆マイ火きり杵をつくろう |
私は、ことばがどういう意味で使われているのか。 使った人の意図が、受けての人にも同じイメージとして伝わっているのか。それが気にかかっています。 |
今年度から活動開始した「古代の食事かい」。 | ||||||||||||||||||||
古代の調味料 藻塩作りに挑戦「しょっぱい体験も喜びに/古代の食事かい」
考古楽研究発表資料要約: [ 玉津田中遺跡出土のココヤシ考]
―2009 年の篠宮研究員の考察文からー TKY48について(実践考古学の分野に入るのでしょうか)
「明石原人」の発見者 直良信夫とは パート1
「明石原人」の発見者 直良信夫とは パート2
博物館冬季企画展 「兵庫津-中近世の港湾都市-」が開幕 兵庫津は大輪田泊と呼ばれた古代から近世まで
トリビア:古代米:☆兵庫県立考古博物館で育てる3 種の赤米
エッセイ:☆龍の絵画土器発見で意欲隆々/大中遺跡の土器洗い体験
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兵庫津・北風家寄進の玉垣 越中・六渡寺の神社に現存この見出しで越中の話か、関係ないわ と思わないでいただきたい。館で開催中の冬季企画展「兵庫津」に合わせた話である。 私は富山県(越中国)出身だが、神戸に兵庫津という繁華な港町があるのは高校の日本史の勉強で知っていた。だが、北風家という廻船問屋の豪商がいたと知ったのは、40余年ほど前の神戸在勤中、北風家関連の史料集を手にしたときだ。兵庫津随 一の富豪で、兵庫津を牛耳っている大物というイメージだった。 間もなく上方落語に「西の旅」という演目があり、その一節に北風家が出てきて驚いた。たしか本館学芸員、中川渉さんの父上、桂米朝師の生の高座かレコードで聴いた。兵庫津の説明で「兵庫の北風か、北風の兵庫かと言われるほどの長者や」のようなセリフがあった。北風家の半纏を着ていたら北風家で飯が食え、 風呂にも入れるという話も出てきたはずだ。 このことは三木市出身の作家、玉岡かおるさんの最近のヒット作『帆神』にも描かれている。ついでながらこの作品で北風家が工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛を支援していたことを知った。 北風家が「北前船」も経営していたと知って我がふるさと富山県と何か接点がないか調べてみた。 北前船は北海道と兵庫・大坂を結ぶ日本海航路の廻船で、越中には北前船が寄港する港がいくつもあったからだ。 パソコンでのデータ検索の末、見つけた。 主要港・放 生津の隣町、六渡寺の日枝神社 に北風家が寄進した玉垣があるというのだ。 玉垣の石柱は 272 本あり、大坂から北海道に 至る北前船の船主が航海の安全を祈り寄進した。その中の 12本に北風 荘右衛門の名前が刻まれている。 幕末の 1852年のもので、射水市指定の文化財になっている。この神社には三角形の石の鳥居があるのだが、この石材は神戸の御影石だそうだ。日本海航路―瀬戸内海航路を通じて富山―兵庫は江戸時代からつながりがあったわけだ。 北風家は代々、荘右衛門を名乗っているが、玉垣を寄進したのは 65 代目!の「貞和」という人のようだ(倶楽部の仲間、Nさんの教示による)。なかなかのやり手だったたらしい。 「西の旅」で兵庫津を語った米朝師の息子さん、中 川 学 芸 員 が 2 月 5 日 、「 出 土 品 か ら み た 兵 庫 津 」 と 題 し 兵庫津ミュージアムで講演される。同館には元考古博 のTさんも勤務されている。皆さん、この機会 に兵庫津へ。これ標語(兵庫)です。 |
新型コロナウイルスも少し目途が見えてきたように思える。現在、地球には70億人前後の人が生活をしている。この世界的コロナ発生であるが、過去にもこのようなことは何回も繰り返していると思われる。このような状況での事例を紹介したい。 |
1; 播磨の考古学者 今里幾次 |
兵庫県たつの市にある“長尾・タイ山古墳群”について少し紹介したく思う。この古墳群は昭和55年7月15日から昭和56年3月31日まで調査発掘を行った遺跡です。調査の発端は、地元のヒガシマル?油の関連会社が「緑のひろばづくり計画」を立案したが、埋蔵文化財登録地であるがため、調査を地元の考古学者に依頼した。報告書は1982年に龍野市教育委員会として発行されているが、調査の主体は、地元研究者6名プラス、大学生・高校生・中学生60余名と作業員による発掘であった。 |
ここからは裏話に入る |
コロナが流行し4ヶ月を過ぎようとしている。そのニュースで出てくるのは「高齢者」であります。そこで高齢者を調べてみると、?定年を迎えた60歳、?年金を全額もらえる65歳、?あるいは70歳、?それと75歳、と色々あり定まっていないのが現状である。 |
当倶楽部会員により考古学関連の本が出版されているのでご紹介します兵庫県たつの市御津町 朝臣4号・5号・7号墳測量報告書 ----旧御津村の先人の足跡を再検証する---- - みはらし会 考古部会 萬代和明 他著 全国遺跡報告総覧にて 兵庫県みはらし会で検索、ダウンロードできます。 図解 播磨国風土記賀古郡 神田晋治著 amazon.co.jp |